しばしの談笑ののち、アストロたちは他の知人客に呼びかけられ、そちらへ向かった。テーブルにはバシュラール夫妻のみが残される。 リディアンヌは夫を見上げ、にっこりと笑みを深めた。 「旦那様、さきほどはあのようなことになって、申し訳ありませんでした。ですけど、お気遣いくださってうれしかったですわ、ありがとうございます」 オルレアンは訝しげに瞬き、それから何のことか思い当たったらしい、頷いた。 「私が、口を挟むことを、あなたは望まないだろうと思ったからな」 一瞬――本当に一瞬、リディアンヌは真っ白になった。何のことを言っているのか、それこそ分からなかった。ただ、行き違いがある、と思った。けれどすぐに理解する。旦那様は、こう言っているのだ――あのとき、リディアンヌがおのれをかばう言葉も擁護も望まず、自分の言葉で確かに返答しようとしていた。だから、オルレアンは何も言わなかったのだ、と。 ただ、背後で見守るだけ。 ただ、彼女の精神のみを気遣い、寄り添っただけ。 決して、リディアンヌの問題に立ち入らなかった。 このひとは、妻のもっとも望む形を、当然のように選んだのだ。 愕然とした。オルレアンは、リディアンヌを理解している。少なくとも、そう努めてくれている。皿を持つ手が微かに震えた。落とすのが怖くて、いや、荒れ狂う内心を鎮めたくて、そっとテーブルに皿を置いた。 ――それは、何のせい? 違うのだ。リディアンヌは、あのとき、ごく自然に肩に触れ、いかにも仲むつまじい夫として気遣ってくれたことに礼を言ったのだ。自分の気持ちを汲んでくれたのだと、気づいてもいなかった。心は張りつめて、父の教えが渦巻き、リディアンヌ・バシュラール夫人をまっとうすることばかりに集中していた。過去の愚かしさにもう負けないために。 だけど。 こんなのは。 「……なぜ」 絞り出すようなリディアンヌの声を受けて、オルレアンが瞬く。そのひどく気のない仕草は、本来の、つまり、恋する前の、彼に似ていた。 「なぜ、そう、分かったのです、か。わたし、が、……ひとりで、やり抜けたかった、と」 おそろしい質問だ、と彼女は思った。この答えを聞くことが、ひどくおそろしい。自分はたいへんな間違いを犯してしまったのだと。 そう、 「…………見れば、分かる」 旦那様は、数瞬、視線をさまよわせ、やがてはっきりと妻を見た。 とろけるような、蜂蜜よりも甘くて、おそらく愛に満ちた視線。 唇が動く。 「私は、君を愛しているので」 ――ああ。 そのときこみ上げた感情を、なんと呼ぶのか。悲しみではない、怒りではない、苛立ちではない、恐れではない、諦念でもない。 ましてや、幸福などではまったくなかった。 リディアンヌはおのれのあさましさを自覚した。罪悪感よりもするべき後悔よりもよほど強く、この胸にあまりにも身勝手な感情が満ちる。 やめて、と喉の奥で悲鳴がこぼれた。やめてください。 「……リディアンヌ?」 違う、違うのだ。あなたは、そんな風にわたしを呼びはしない。あなたは、そんな風にわたしの気持ちを探りはしない。本来なら、無感動にわたしを一瞥し、気分が悪いなら休みなさい、と言葉少なに促すだろう。 過ぎた優しさをもってそっと頬に伸びた、ペンだこのある、この数日で繋ぎ慣れた指を掴む。 「うそ」 ひきつるような声が喉を突いた。 やさしいやさしいかわいそうな旦那様は、大きく目を見開いた。 こらえるべきだと理性は告げた。けれどもリディアンヌの愚かな子供の部分がためらいなく手綱を振り切り、まっすぐに相手を傷つける言葉を吐く。 「うそ、です。旦那様。それは、違います。違うの。旦那様は」 魔女の、不満そうな顔が脳裏をよぎった。わたしのだいじなおともだち。ごめんなさい。ごめんなさい、あなたは、きちんと諌めてくれたのに。 わたしは、間違えたのだ。 「旦那様は、恋なんてしていません」 たとえいっときだって。 このひとの心を、労力を、意識を、傾けさせてはいけなかったのだ。 恋という感情が、これほど人を動かすものなのだと、リディアンヌは知っていたのに。 |