リディアンヌはしばし沈黙した。それから、ぐずっと鼻をすすった。 「うわっ、汚いね! 寄るんじゃないよ」 酷いことを言いながらも、アニエスは魔法でちり紙を出してくれる。しかも甲斐甲斐しく鼻に当ててくれた。 リディアンヌはつい、へにゃりと笑ってしまった。 「ありがとう、アニエス」 魔女はむすっとした。それより、と話を戻す。 「あんたは、媚薬の効果を解くよう頼みにきたんだろ」 奥様は頷いた。 「取り返しのつかないことをしてしまったけれど、でもこれ以上あの方を貶める前に、一刻も早く解毒薬を作っていただきたいのです」 「ふーん……」 きらきらと過る偽りの銀河を、魔女が人差し指でかき混ぜるようにいじる。 「うーん、難しいね」 「えっ、そうなのですか」 「まあそろそろ言ってくる頃だろうとは思ってたんだけどね」 きょとんとしてから、あ、と気づく。 「もしかして、対価ですか? それなら大丈夫ですわ、ちゃんと用意を」 「いやー、そうじゃなくてね。いやもちろんいただくけどね。材量がちょっと足りないんだよね」 「えっ」 「近いうちに採取に行こうとは思ってたんだけどねえ」 「そ、そうですか……」 それは確かに難しい。くるくるとアニエスの指に銀河が巻きつき、さらさらとした粉に変わって天秤に落ちる様を見ながら、リディアンヌはぎゅっと涙をぬぐった。息を整え、気持ちを入れ替える。 「アニエス、おかしな時間にお邪魔して申し訳ありませんでした。そろそろおいとましますわ」 旦那様に今日中に帰ると告げてきたのだ、そろそろ戻らなくてはいけないだろう。そう思って立ち上がった奥様を魔女が止める。 「帰るにはちょっと遅過ぎるね。さすがにこのカサンドルで獣にでも食われたら寝覚めが悪いからね。泊まっていっていいよ」 「えっ……でも」 慌てて扉を開けて外を見れば、言われた通り真っ暗だった。いったいどれくらいぐずぐずと泣き言をこぼしていたのだろう! 我ながら女々しい。 「ま、一晩頭を冷やしたら? あんたちょっと、興奮してるみたいだしね」 「う……はい。では、お言葉に甘えて」 さらなる失態に言葉もなく、旦那様に対する申し訳なさが加速する。まあ、行き先は告げてあるから、さほど心配をかけてはいないだろう。しかし、情けない。項垂れたリディアンヌの前にふわっとティーカップが浮かぶ。手を伸ばすと、ちょうどよくそこに収まり、カップの中から白い湯気が漂った。 「寝やすいお茶だよ」 「まあ! ありがとうございます」 喜んでカップに口をつける。と、アニエスの口がニヤァ……と歪んだ。え? と不思議に思った瞬間、 「……あら?」 くらり、と強烈な眠気が襲ってくる。油断しきっていたリディアンヌは、ものの見事に昏倒した。 ――寝やすいって、そういうことですか! 完全に意識が落ちる寸前、友人のお茶目な悪戯に心の中で突っ込んだ。 目覚めると、朝霧が立ちこめていた。 ぼんやりと薄い光を見つめる。それはどうやら、窓の向こうから差し込む陽光のようだった。優しい明るさが、部屋中のあちこちに植えられた怪しげな草木を瑞々しく照らす。掘建て小屋のような魔女の家の奥に、こんな部屋があったことを初めて知った。 未だ半分夢の中のリディアンヌの傍らで、何かちいさな生き物がこそこそと駆け回っている。風の音みたいなささめきがころころと聞こえた。小人以外の手下もいたのね、とリディアンヌはなんだか微笑ましい気持ちになって――そこでハッと覚醒した。 「も、もう朝……!?」 絹の寝台から滑るように落ちて、わたわたと奥の扉を開ける。 「おや、おはよう」 そこはいつもの魔女の部屋で、彼女はすでにいつもの格好でいつものように宝石を磨いていた。 「お、おはよう……ございます……。って、今何時ですのっ?」 真っ青になる奥様である。 「そう慌てても一夜経ってしまったことは変わらないんだから、落ち着いたらどう。朝っぱらから騒々しいよ」 リディアンヌはしゅんとなった。 促されて席に着く。朝の香り茶とくるみのパンが瞬きの間に用意される。優しい。魔女がこんなにまっとうに優しいなんて、自分はそんなに悄然としているのだろうか。 朝だというのに魔女の部屋――ここは、もしかしたら応接間ということになるのだろうか――はなぜか薄暗い。外から届くのは爽やかな鳥の声などではなく、ふしゅうふしゅうという蛇が舌なめずりするような奇妙な鳴き声。備え付けの硝子戸の棚ではふしゃっふしゃっと喚く人面の草。 そんな室内を所在なく見回しながら食事を終える。魔女らしからぬ素朴な美味しさだった。 「リディアンヌ、わたしは人間が見た目よりだいぶ図々しくて醜くて身勝手で癇癪持ちな生き物だと認識している」 突然、魔女が言った。いったい何の話だろう。 「だからリディアンヌ、あんたがそういう人間でも、何も悪くないのさ。わたしはそういう、意地汚さを好ましく思うよ。魔女だからねえ」 邪悪こそ誇り。アニエスはひひっといかにもな風情で笑った。リディアンヌは苦笑する。 「なんだか複雑ですわ」 「そう? あんたの思考回路もなかなか複雑だけどね」 さて、と魔女は立ち上がり、ぱちんと指を鳴らした。途端、リディアンヌの足がほんの少し浮き上がって扉の方まで飛ばされる。奥様は目をしろくろさせた。 「え? え?」 「そろそろ客がくるんだ。適当に対応しておいて」 「えええっ、無理で……!」 最後まで言い終わらぬうちに、リディアンヌはあっさり外へと放り出されてしまった。 ぽうんと下草のあたりに転がり落ちる。もう、手荒なんですから……と膝についた土を払う。そのとき、淡い霧の向こうで足音がした。林立する木々から青い葉がひらりと落ちる。リディアンヌはふと予感を覚えて息を詰めた。 振り向く。 静かに佇む人影をみとめて、彼女は弱く呟いた。 「旦那様……」 |