そのにじゅうよん:旦那様の追想




 旦那様が奥様をはじめて目撃したのは、ふたりが結婚するだいぶ前のことだったりする。最初の婚約もまだの、成人としてデビューしたてのリディアンヌ・ココットが初々しく出席した王家主催の園遊会。彼は、そこでリディアンヌと出会った。
 彼女はでも、きっと覚えていないだろう。
 旦那様は昔から口べたで、無口で、無表情であったので、つき合い程度に集まりに出ては、ほとんど踊りもせず食事をして帰るのが通例だった。彼はあまり、仕事以外で人と関わるのが得意ではないのだ。社交界に関わるのも、仕事といえば仕事だが。
 その日のフィラドール宮殿の庭は王妃の好きなチューリップがいっぱいに花開いていて、とても気持ちの良い風のある日だった。瑞々しい緑が真昼の光を浴びて気持ちよさそうに枝を伸ばしていた。草むらは青く波打ち、四角い迷路庭園には春の花が淑女の髪飾りみたいに咲き、蔓薔薇を這わせたポールが華やかな庇を作った。すべてが春の陽気に輝いていた。
 リディアンヌのきらめく瞳も。
 彼女は楽しそうに会を見回し、父親に連れられ、挨拶をして周っていた。まだ譲爵の済んでいなかったオルレアンと、その父のもとにもやってきた。そのときは、何やら楽しそうで微笑ましい方である、というくらいの印象だった。問題は、そのあと。いつもの如く、壁に塗り壁と化していたオルレアンは、生ハムと果物の角切りをもそもそと食していた。生ハムは美味しかった。とん、と隣の壁に誰かが背をつけるまでは。
 反射的に、彼は振り向いた。彼よりずいぶんと低い位置に複雑に髪を結われた頭があった。ちいさな顔は頬を上気させ、唇にほんのりと笑みを刷いている。はああ、と無邪気な吐息で、ひとつ、間をおくようにして。
 ぱっと彼女がオルレアンを仰いだ。
「こんにちは、オルレアンさま」
 笑顔だった。にこにこと、どこかのんきそうな笑顔をしていた。さきほど覚えたばかりの名前で、間違えてはいないだろうかと、ほんの少しこちらを窺って。オルレアンは瞬き、とっさに反応できなかった。だから、ただ頷いた。
 しまったな、とすぐに反省したが、リディアンヌ嬢は気にしていないようだった。どころか、さらに話しかけてくる。
「あら、果物がたくさんですね。お好きなのですか?」
「……ええ」
 今度は、返事をできた。旦那様はちょっと満足した。すると彼女はさらに笑顔になった。あら、まあ! と嬉しそうに声をあげる。
「わたしも好きです。さすが王妃さまの催しですね。美味しいものばかりで、わたし、どきどきしてしまいます」
 食べ物だけなのか、と視線を群生するチューリップの一角へと向けると、もちろんお庭もすてきです、と告げられる。彼女は楽しそうだった。オルレアンとしゃべっていてすら、この園遊会を楽しんでいた。
 この娘、強い。
 と、オルレアンは思った。おののいた。ある意味、感嘆した。なぜって、彼女は楽しんではいるものの、とくべつ浮かれきっているわけでもないようだったから。素で、この調子なのだろう。世の中には、のんきな人間というものが、自分の友人以外にもいたものだ。
 リディアンヌ・ココットはしばらく、オルレアンと他愛もない話を続けた。アストロのように息をするように喋り続けるわけでも、フェルディナンのようにひたすらうるさいわけでもなく、ごく自然にのんびりと話し続けた。春の陽気のような娘だった。
 今日は気持ちのいい日だ。ふとそんなことを考えた。
「今日は、本当にいい天気ですねえ」
 リディアンヌは優しい調子でつぶやいた。彼女の目の中では、青空はどんなに青く、チューリップはどれほど美しいのだろう。
「オルレアンさま」
 彼女は前に向けていた顔をオルレアンの方へと戻し、やはり、無邪気に彼に笑いかけた。
「ダンスがはじまったようです。混ざりませんか」
 言われてみれば、華やかな楽の音がする。庭の開けたあたりで、人々が集まって手を繋ぎ合っていた。夜会とは違って、どこか素朴で健康的なダンスだ。オルレアンは、躊躇した。何せ、ずいぶん、踊っていない。それに、踊るのは苦手だ。人の傍のぎりぎりまで、近づくのは得意ではない。
 しかし、このときオルレアンの唇は、彼の意志を確認する間もなく勝手に動いていた。
「……お手を」
 思い返せばあまりにも素っ気ないその誘いを、リディアンヌはとても嬉しそうに受け取った。ひらりと舞い散る花のように、ちいさな手のひらが彼のものへと舞い降りる。
「喜んで、オルレアンさま」
 笑みを含んだ声が言う。オルレアンはまぶしさに目を細めた。青空も、チューリップも、彼女の桃色のリボンも。
 すべてが鮮やかに輝いた。








 そう、だからオルレアンは、リディアンヌにあの日のように無邪気に笑ってほしかった。そういうことを、口に出さなくてはだめだと、友人たちが何度も呆れて言ってくれたのに、彼はなかなか実行に移せずにいた。どう言えば、彼女を傷つけずに癒せるのか、彼には皆目検討もつかなかったのだ。
「……旦那様」
 茫然とつぶやく妻を、オルレアンは今も、無言で見つめる。彼女はどうやら、動揺しているらしい。それも、何かにひどく心を痛めている。
 それは、オルレアンの言葉だろうか。
 自分は、彼女に何か、意外と精神力のある彼女にすら耐えられないようなことを、言ってしまったのか。
 旦那様は黙考する。新緑のそよぐ森は、朝の日差しを受けて、そこかしこに眠る露をきらめかせていた。光がきらきらと舞い狂う。カサンドルの森は美しかった。オルレアンの治め、魔女の憩う森。
「もう朝だ」
 一夜明けても魔女のもとから帰ってこない妻を迎えにきて、なぜそう不思議そうな顔をされるのかわからない。びくっと肩を震わせたリディアンヌは、やがて申し訳なさそうにうなだれた。
「申し訳ありません、わざわざ旦那様にご足労いただくなんて」
「……謝らなくていい」
「ですが」
「用は」
 済んだのか、と口にすれば良いものを、旦那様は結局そこで終えてしまう。
 リディアンヌはさらに深く頭を下げた。ああ、とため息がわき起こる。そうではない。そういうつもりではない。なぜ、うまく伝えられないだろうーーこんなつもりではなかった。
 自分はただ、妻を迎えにきただけなのだ。
「帰るぞ」
 言ってから、オルレアンは眉をひそめた。まただ。どうにも厳しい言い方になってしまった。旦那様はちょっと困った。ちいさな妻は、滅多にないくらい酷い顔色をしていた。随分とためらって、けれどオルレアンは何食わぬ顔を装って手を伸ばした。
 リディアンヌの細い手首を掴む。
 湖に息づく森のような、雪の朝の薄い青空のような、深い青灰色の瞳が真っすぐにオルレアンを見ている。今、これほど静けさをたたえる眼差しが、どうして普段はあれほど陽気に満ちているのだろう。
 とても不思議だ。
 彼女がそこにいるだけで、世界はあまりにも美しい。

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