水瓜とひだまり。

 

 

 

 

 

 

「そーいやおまえ、今日誕生日じゃなかったっけ?」

 ランドセルを背負った彼に、級友のひとりが思い出したように言ってきたのは、もう下校の鐘が鳴った頃のことだった。

 ぱちくり瞬いてから、ああと頷く。そういえば、そうだった。窓向こうの晴れ上がった空。教室中に柔らかな陽光。好い天気、というものの典型のような日柄だ。ばたばたと騒がしく友人達が帰っていくのにいちいち挨拶して、晴久は「それがどーかした?」と首を傾けた。少々垂れ目がちな彼がそうすると、珍しくも年相応に幼くなる。

「ん、大したことじゃなねぇんだけど。これやるよ」

「?」

 眠た気に渡されたものを見やれば、それは何かの種のようだった。……手を差し出されたので反射的に受け取ってしまったのだが、これは一体全体どういうプレゼントだろう。種っても、生身だし。

「えーと?」

「山菱ってたしか、結構植物好きだったろ」

「……って、なら美弥にあげろよ」

「二人で育てればいーだろ」

 なんだそれは。

 思わず壮絶に嫌な顔をしてしまう。級友は苦笑した。小さな村と小さな街の子供達で構成された小学校は、ほぼ顔見知りばかりで、人によっては別々に帰ってもすぐ顔を合わせることになったりする。本当に、本当に小さな街にある学校。そこからほんの少しばかり離れたそれ以上に小さな村の人々は、今時吃驚するくらい温和で、そこで生まれ育った子供達もまた、どこか擦れていないところがあった。のどかで、時の流れの遅い空間で過ごしているからかなんなのか、ちょっとばかし老熟しているのだ。無邪気盛りではあるが、一桁の齢で分別を弁えている。そういう傾向が、あった。彼らには。

 水瓜の匂い。

 ふと晴久は気付いた。すぐ近くで、水瓜の匂いがした。透明で、きれいな水みたいな、柔かくて、甘過ぎない、穏やかな。

 咄嗟に彼が振り向く前に、級友は告げる。

「あほらしーよなー、おまえら」

「……なんだよ、それ」

 阿呆なのは美弥だけだろ。よっぽど言ってしまいたかったが、一応黙る。

「……まぁ、どうも。ありがとう」

 しぶしぶ言うと、種を押し付けた本人はからりと笑ってさっさと教室から出てった。……どうせ、同じ村に帰るというのに、薄情なものだ。後ろ姿が見えなくなったところでポケットに種を押し込む。ふぅと一日何度も零れるため息をまた漏らして、彼は今度こそ振り返った。

「美弥」

 そこにいる筈の幼馴染みに、帰るよ、と促す為に。

 だけど振り返った晴久はぎょっと目を見開いた。

 確かに、晴久の予想通り、そこには美弥がいた。いたが、その美弥が常にないほど真っ青になっていたのである。

「え、な、なに? どうした?」

 晴久は自分より幾分背の低い美弥に合わせるようにして腰を屈め、両手をあわあわと泳がせた。いつもふにゃふにゃ笑ってる彼女のこういう顔は、なんというか、心臓に悪い。

「美弥?」

「……ど、どうしよう」

「ええ?」

 ぐっと口元に拳を寄せて、俯く。ふわふわした美弥の髪が揺れて、晴久の頬に僅かに触れた。水瓜の、匂いがした。美弥の家の水瓜の匂い。晴久が一番好きな水瓜。

 晴久は何も考えずに手を伸ばした。美弥の耳にかかる髪をのけるようにして、ふくらかな頬に指先を、手の平を滑らせる。仄かに暖かい人の温度が直に伝わる。そこで漸く、晴久は自分の失敗に気付いた。何をやっているんだ自分は。もうぼくは十になるんだし、子供じゃないんだから、べたべた触っちゃダメだろ。

 慌てて、ぱっとその腕を引く。隠すように後ろに持っていき、ばつの悪い顔になる。

「……どうしよう、ごめん、晴久。あたし」

 今日がそうだって、忘れてた。

 おろおろと、この世の終わりみたいに美弥は言った。

 晴久の目は点になった。

 ……はあ?

 なんのこっちゃと訝しんで、すぐにそれが己の誕生日のことだと合点する。なるほど。つまりはプレゼントを用意してなかったと言いたいのだろう。別にいいのに。

「いーよ、期待してなかったし」

「う、でも」

「ていうか、美弥はさ、日付忘れてたんだろ」

 呆れてばっさり切ると、美弥は絶望的な顔になった。彼女は、あんまり自分のナナメっぷりを自覚していない。いささかどころかかなりドジなことに、気付いていない。

 晴久も、取り立ててそれを言ってやるつもりはなかった。たぶん、少しずつ彼女は分かっていくことだろうから。そう、美弥のおばあちゃんもおかしそうに笑って言っていた。晴久に向かって。

 だから、いつでもあのこの傍で、抱きしめてやってね、と。

 そういうようなことを言われるたびに、晴久ははなはだ微妙な気分になる。自分は美弥の兄でも親でもないのだが。

「は、はるひさ」

 くるりと背を向けて、今度こそ教室を出る。ばたばたと追ってきた美弥がシャツの裾を掴んできた。見やればこわごわと、——というか途方にくれたように、何事か告げようと口をもごつかせている。

 ——その時、背筋を駆け抜けたあの感覚を何と言おう。

 いや。

 はっきり言おう。

 悪寒だ。

 ここ一週間で特大級の、悪寒だった。激しく嫌な予感がした。これから、この阿呆が何かいつも以上のことをやらかすのだと本能が悲鳴を上げたのだ。

「……み、や?」

 晴久は青ざめながら、おそるおそる尋ねた。ああ、なにゆえ誕生日までこんな思いをせにゃならんのだ。

 と、美弥はばっと派手な動作で顔をあげた。どうでもいいが廊下のど真ん中で自分達はよく見咎められないことだ。だんだん恥ずかしくなってきて、そそくさ歩を進めると、美弥がそんな晴久の胸の裡も知らず、大声で宣言する。

「だいじょうぶっ!」

 何がだ!

 

 

 

 

 帰宅した晴久を向かえたのは耳に痛い爆発音と大量の細長い色紙だった。

 その派手なクラッカーの音にぽかんとして、押し付けられた『あんたがしゅやく』と縫われた謎のたすきを無理矢理にかけられ、顔面にぶつかる勢いでケーキが吹っ飛んでくる。

 ケーキが。

「ぅわああああっ!」

 慌ててがくんと腰を落とす。ぎゅっと目を瞑った上で、何か柔らかいものが潰れた音が聞こえた。おそるおそる見上げればイイ笑顔の兄が大皿で綺麗にケーキを受け止めていた。……ああその笑顔がニクい。

「に、兄ちゃん。何やってんの、さ」

「そこはありがとーだろ弟よ。だいたい投げたのは母さんだ」

「……ありがとう。で、母さんは何でケーキなんか投げたの?」

「やぁね、だって今日はあんたの誕生日でしょう」

 廊下の奥、曲がるとダイニングに繋がるドアを開けたまま、にこにこ母が笑っている。いかにも温和な表情で。

「何でぼくの誕生日だったらケーキなんか投げるんだよ!」

「だぁって美弥ちゃんはー?」

 少女のように唇を尖らせて、むぅと拗ねてみせる母に脱力する。

「なにそれ。意味分かんないよ」

「あんたの誕生日に美弥ちゃんが居ないことの方が意味分かんないわよ。もう、ほんっと朴念仁。誰に似たのかしら」

 何で誕生日までこんな意味の分からない責め苦を受けなきゃいけないのか。情けない気分になって晴久は兄を見た。恒夜という、実に名前と正反対の方向を走る陽気な兄は慈悲深く笑って言った。

「晴久は父さん似の、肝心なところが残念なヘタレだからな」

 酷い言われようだ。

 だけど残念なことに晴久の知る限り恒夜は最も賢い。らしい。らしい、というのはいまいち実感が沸かないからだ。ただ、このひとの言うことは大体合ってるんだよなぁ嫌なことに、とは常々思っている。そういうわけで、晴久はなんとなく反論出来なかった。

 ちぇ、と思いながら、靴を脱ぎ、きちんと揃えてぺたぺたと廊下を進み、ダイニングへ向かう。と、ぽんぽんと兄が頭を叩いてきた。一体何事かと睨めつけるが、彼はただ嬉し気に笑うだけで何も言わない。

「……なに、兄ちゃん」

「やー、ちょっと見ない間にでっかくなったな」

「ちょっと見ないって、この前遊んだ気がするけど」

「兄弟ってのは普通、毎日嫌でも顔合わせるもんなんだよ。俺が街の方にいってなきゃ、な」

 今年高校に上がった兄は、“ばいと”とやらに明け暮れているせいか、なかなか会うことがない。ばいと、とは何かと問うた晴久に、彼はちょっと会えなくなるんだよ、と答えにならない答えを返してきたのを覚えている。てくてくダイニングに足を踏み入れ、開けっ放しのままだったドアをぐいっと引いて、ドアから左壁にあるソファにランドセルを下ろす。あとでちゃんと部屋に持っていきなさいよ、と母は見もせずに言った。息子の行動はお見通しらしい。恒夜は残念だったなとまた乱暴に弟の頭を撫ぜた。

 今では“ばいと”がどういうものかは分かっているけれど、それでもはっきりとは全体像が掴めない。そんなに興味がないからかもしれなかった。街の方に居を構える子たちならあるいはしっかり理解しているのかもしれないが、村側の人間は、おそらくいまいち分かっていないことだろう。美弥は言わずもがな。

 晴久は鬱陶しそうに兄の手を払い、ついでに髪の毛にひっついていたクラッカーのカスも払い落とした。

「もう、あんたお隣いってちょっと美弥ちゃん呼んでらっしゃい」

 どん、とテーブルの中央に勢いよく大皿を置いた母が、憤慨したように言った。今日はチキンなようだ。豪勢だが、なんとなく自分のことをチキンと言われているような気がするのは、果たして疑り過ぎだろうか。

「何で」

「美弥ちゃんの誕生日にはあんた向こうの家に行くでしょう」

「そうだけど……、今日って、ぼく、誕生日なんじゃなかったっけ」

「だから呼んでこいって行ってんでしょ?」

 ……うーん?

 なんだこの釈然としない感じ。晴久はいかにも子供らしくなく唸ったが、恒夜に苦笑気味に背を押されて、仕方なく重い腰を上げた。どうしても自分がいかなくちゃならないらしい。やれやれ。

 ……ああ面倒臭い。

 

 

 

 

 家を出るとすぐに田圃が見える。右にも左にも田圃。それがずぅっと広がって、畦道が出来ている。よく言えば見晴らしがよく、平たく言えば何もない。コンビニはもっと町に近い道までいかないと見つからないし、車道もあるにはるけれどほとんど通っていない。たまにトラックががたごと通るくらいだ。あとは水瓜の納入。水瓜、と言えば美弥の家だ。美弥の家、つまりお隣さん家の奥から通じる畑には丸々太った水瓜が生る。今年も美味しい水瓜をたくさんお裾分けしてもらった。そう思えば、今美弥を呼びに玄関ドアを叩こうとしているのもお礼の一貫と言えるのかもしれない。

 ともかく、晴久は何の気負いなく、お隣さん家のドアをコン、と軽くノックした。

 次の瞬間ガッとものすごい速さで開いたドアが、彼の額に強打した。

「……いっ……」

 声もなく呻く。

「あ、あら? 晴久くん?! ごめんなさい、大丈夫?! 美弥かと思ったの」

 ぎょっとした風の美弥の母親、つまり晴久の額に思いっきりドアをぶつけた張本人は、慌てたようにしゃがみこんで彼の頭を撫でた。撫でる、というか押さえた。

「だ、だいじょうぶ、です。あの」

「本当にごめんなさいねぇ。ああ、こぶになってないかしら」

「あの、おばさん、さっき、美弥って」

 じんじんする額を両手で押さえて、涙目ながら何とか尋ねる。すると彼女は困ったような顔になった。はぁ、と慣れたていでため息を吐く。晴久は嫌な予感がした。げ、聞くんじゃなかったぼくのばか。心の中で壮絶に後悔するが時既に遅し。

「一旦帰ってきたらしいのだけど、いないのよ。こんな書き置き残して、どっかいっちゃったみたい」

 ぴらり、と美弥の母が見せた紙には、『ちょうちょう、さがしてきます』と拙く書かれていた。

 ……探すくらい、漢字で書け、と晴久は思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

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