ありえない。

(…………なに、)

 何、何、何。何今の!

 どっ、どっ、と忙しなく駆ける心臓の辺りを押さえ、掃除用具入れにドン、と背を預ける。顔が熱い。くらくらする。

(なんで、)

 夏から、自分はおかしい。確かに恋を怖いと思っていたけれど。自分でも情けないくらい挙動不審であったけど。

 でも、こんな、こんな風に、不安定じゃ、なかったのに。

 押さえが利かない。あたし、の。

「春夜?」

 びくっと肩が震える。怪訝に眉を寄せる千乃にあたしは曖昧な笑みを浮かべた。演るのって、いつからだっけ。そんなことを聞いてみる。千乃は礼奈と顔を見合わせて、何かもの言いた気な眼差しをしてから、諦めたように答えてくれた。……こういう時だけ、千乃は優しい。

「ん、まだまだ、かな。今最後の台詞合わせやってるから」

「台詞合わせ……」

「そうそ。今佑香が水用意してる」

 ほらあれ、と礼奈が指差した方向では水入りペットボトルを両手に溢れんばかりに抱えた佑香がよたよたと歩いていた。危な、と思って動きかけたけど、丁度示し合わせたみたいにやってきた間中がひょいっと三分の二を取り上げたのを見て、ほっとする。……佑香も無茶するなぁ。

 頬を赤くしてぷんすかする佑香に向かって間中がからからと笑う。遠目に見ても微笑ましい。

 二人から視線を外したあたしは、次に窓際に座っている人物を見て、——どきりとした。木戸くん。ぼんやりと、人の良い顔のまま、深緒を見ている。ため息のような眼差し。視線の先で真剣な表情で淀みなく台詞を放つ深緒は、だから気付かない。まるで、何かに追われるみたいに必死に深緒のものではない言葉を繰り返している、から。

 ——痛い。

 息苦しいくらいに。たぶん、深緒は焦っている。きっと何か失敗してしまったから。たぶん、だけど。あたしは深緒じゃないから、正確なところは分からない。そもそもあたしはあたしのことすら分からないんだから。

「……千乃」

「なに?」

「前さぁ、あたしに、なんで告わないの、ってずっと言ってたよね」

「……ああ、うん」

 緩く千乃は頷いた。礼奈が不思議そうにしてから、口許に親指の爪を当て、かと思ったらすっくと立ち上がる。思わず見てしまうあたしと千乃の頭を何故かぽんぽんと撫で叩いて、するりと去っていってしまった。……分からん。ぽけっとしていると教室の外から顔を覗かせた新谷が、ちょいちょいと礼奈を手招く。礼奈はにぃっと野生っぽく笑ってそちらに向かっていった。本当に謎な二人だ。ああ、でも。

(……席外してくれた、ってとこかな)

 やっとそう思い当たって、少しばかり申し訳ない気持ちになった。だけど折角の厚意に甘えることにする。——今のあたし、かなり情けないから、あんまり見られて嬉しいもんじゃない、かもしれない。

 うん。

 だから、千乃には話そう。

 あたしはちょっと笑って、机の上に腰かけた。窓際。その窓の外には中庭が見えて、賑やかに走り回っている人達がいる。膨らませた風船のアーチ、紙で作った花の飾り、ジュース売り。なんとも楽しげな祭の様子。文化祭。

 何かの契機になれる日。

「なんであの時、告わせたかったの?」

「……今聞く?」

「聞く。そりゃもうずばんと」

 えー、と千乃が面倒そうにぶうたれる。あたしはその脇っ腹をどすんと突いた。ぐえ、蛙が潰れたみたいな声。半眼で、いーから、と促す。千乃は浅いため息を吐いた。

 とけるような。

「……もどかしかったから」

 小さな呟きに瞬く。もどかしい?

 何が——誰が?

 ぼうっと見る視線に頷くように顎を引いて、むずがゆそうに顔をしかめて、それから千乃は頬杖をついた。睫毛の影が濃い。開いた窓の外から、秋の匂いがする。

 ひらり。

 早い銀杏の葉が踊る。

「ふたりが。ぜんぶが。何もかもが」

 いかにも面倒だっていう態度で、千乃は言う。あたしはただ瞬きを繰り返す。

 反芻する。

 ——もどかしい。何もかもが。それは。

「千乃も?」

 千乃は答えなかった。

 でも千乃はあたしみたいにどんくさくないし、何もかもに鈍くはない。自分の気持ちにすら長いこと気付かずにいたあたしじゃない。そんでもって、誤摩化さない。

「——うん」

 はっきり、千乃は首肯した。

 そっか、とあたしは呟く。そっか。

「あのね、千乃」

「うん?」

「あたしも、たぶん、もどかしい」

 千乃は驚いたように目を丸くして、しょうがないなぁって言うみたいに苦笑した。ふわりとその手が伸びる。ゆっくりと頭を撫でられた。同い年なのに、まるで子供にするみたいだ。

「どうにかしたいことがある?」

「ていうか、胸のつかえがとれない」

「何が欲しい?」

 からかうような声だった。

 あたしは困った顔で、

「背中、おもっきり押して」

 言った。

 

 

 

 

 

 まばらな拍手の音に首を巡らせると、役者陣が台本を投げ出してぐったり座り込んでいた。教室の床ってかなーり汚いと思うけど、まあこういう時に気にするもんじゃないか。

 ちょっとすると数人がもそもそと動き出して、教室の外に出ていく。多分、演し物を見物に行くんだろう。本番までそんなに時間があるわけでも、かといってなさすぎるわけでもない。気晴らしに観に行くのも良いんだろう。

 ふと、あたしは瞠目した。ふらりと空気みたいに何気なく出ていく背中がある。——佐川、だ。

 追おうとして、ふと躊躇する。きっと疲れているだろう。それに本番前に余計なことを言うもんじゃない。終ってからでも、良い。

「ハール」

「おわあっ!」

 とか何とか怖じ気づいていたらぽんっと肩を叩かれた。にやり、といやーな笑みを浮かべる顔を目が合った。……礼奈だった。

「な、なに」

「今行った方が良いんでない?」

 言われて、ぐっ、と息を詰まらせる。図星。——ていうか。

(何でこうみんな見透かしてるんだよもう……!)

「背中をはっ叩いちゃろうか?」

「……礼奈さぁ、さっきの話、聞いてたの?」

「最後だけ」

「嘘つけ!」

「本当だって。たまたま聞こえちゃっただけだって。だいたい距離あったし。春夜は疑り過ぎ」

「う……」

 ほら、と礼奈が笑う。いつもよりずっと柔らかい顔だ。面倒そうで野生っぽくない礼奈は、なんとなく違和感バリバリで戸惑ってしまう。いや正直に言うと。

「なんか気味悪い」

「そおいうこと言ってる間に行っちゃうよ佐川ー」

「……、へいへい」

「憎まれ口」

 ぺしっと後頭部を叩かれる。あたしは憮然と眉を寄せた。

 これまた躊躇ってから、れな、と呼びかける。なぁにさ、といつも通りな声が返ってきた。

「あたし、頼り過ぎじゃない?」

「そんなこと。良いことじゃん。次はあたしが頼り倒してやるからさ」

 即答だ。

 呆れるくらいあっさりした言い分に、だけどすっと胸が軽くなる。うん、とあたしは苦笑いした。

「ありがと」

「おう。いってらっしゃい」

「ん」

 いってきます、とこそばゆく呟いて、あたしはまろぶように駆け出した。

 

 

 

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