うん、決めた。
侍女の衣装を仕上げて、あたしはうん、と二度、頷いた。
練習を再開した役者組をちらりと見やり、そっと息を吐いて、多少不格好な似非ドレスをたたむ。極力足音を立てないようにしてあたしは教室の外へ出た。ぴしゃん、と引き戸を閉めて、ウォータークーラーがある手洗い場まで行きかけ、
「ハル」
はっしと腕を掴まれた。
びくっとして振り返れば妙に畏まった表情の千乃がいた。……なんだなんだ。
「……えーと、サボろうとしてるんじゃないよ?」
「わぁかってるわよそんなこと! じゃなくて」
じゃなくてなんだ。
手首が痛いと訴えるようにそれを揺らすと、千乃はあっさり手を離した。
ますます訝しむあたしの前で、偉そうに腰へ両手を当てる。
「決めたの?」
「……な、んのはなし」
内心あたしはげぇっと呻いた。何で知ってるんだ。ついつい苦い顔になる。つくづくポーカーフェイスに向かない自分が恨めしい。千乃は会心の笑みを浮かべた。
「告白するんだ?」
「え、しないよ」
何言ってんの。
予想外の推測に目を丸くする。が、千乃の方が顎が外れたみたいな顔になった。
「はあ?! なんで?!」
「いやいやいやそもそも何でこ、く——はく、することになってんの?」
「何照れてんのどこまで純情なの恥ずかしい」
「恥ずかしいとか言うな!」
「だって普通あのあとになんか決めるなら、告白ってやつでしょう!」
「だぁからぁ、なんでそうなんの!」
意味分かんないよ! と叫びたいのを我慢して、あたしは千乃を振り切るようにウォータークーラーへ向かった。がこん、と蹴るようにして装置を踏み、勢い良く飛び出た水に口を近づける。生温い。夏だからか、全然まったく冷たさの欠片もない水道水みたいな味の水を一頻り味わい、手の甲で口元を拭った。……不味い。けど、ないよりまし。
「ちょっとハル!」
「ハルって呼ぶなー! 何?」
またも腕を掴まれて、あたしは眉を下げて問うた。だけど、同じくらい千乃も困った表情だった。
「じゃあ、何を決めたの」
ゆっくり、その言葉を反芻する。耳の奥にじわりと響く。頭の中まで浸透していく。
何を。
「好きでいることを」
千乃の黒い目が瞬いて、見開かれる。一つに結われた髪が、ふんわりと揺れた。可笑しい。今は、ずっしりと重い夏で、風なんてないのに。
無風。
それでも、千乃の髪は揺れる。
分からない、と問い返すみたいに。
「ねぇ、千乃。あたしはさぁ、佐川と、付き合いたいとか、そういうんじゃないんだよね」
「はあ?」
「……そりゃあ、佐川が。佐川が、あたしを好きになってくれたなら。どんなに嬉しいだろうって思う。あは、少女漫画みたい。でも、多分、そんなことはないんだろうなぁって思う」
「……何で?」
「佐川はきっと、すきなひとがいるから」
ずっと、思っていたこと。
つぅ、と瞼を閉じて、開く。うだるように暑いのに、どこか湿った匂いがした。雨が降る前みたいな匂い。重たくって気怠い空気。
佐川は、きっと、すきなひとがいるんだろう。
傍にいる時、話をしている時、ぼんやりと見つめている時。
ふと、思う。
あの、遠くを見るような、穏やかで手の届かないような眼差し。
あれは、佐川の、誰かを想う時の眼なんだろう。
ひとがひとを想う時の眼差しは、多分、人それぞれなんだろうけれど。佐川の場合は、きっと。
あの、遠い、眼。
たくさんたくさん、年を重ねてきたみたいな。
あの。
「……それで、何で、告わないの?」
千乃はさらに困ったみたいな顔になって言った。たとえ佐川が誰かを好きだろうと告うことには関係ないでしょう、って言いたいんだろう。せっかちだなぁ。
「ん、これはさっきの、そんなことはないんだろうねぇっていうやつの『何で』の答えね。何で告わないのか、は」
胸が苦しい。
脳裏に思い浮かべるだけで、あたしの全ての感覚があのひとを好きだと自覚を促す。
ああ、だって、これはもう降り積もってしまったもの。
強く。
一月、気付けば過ごしてしまった日のように、気付いておののいて。
「告えたら、きっとすっきりするし、幸せなんだろうねぇ。多分、振られて、めちゃくちゃ痛くなるけど、でも、嬉しいんじゃないかなぁ、と思う。少なくともあたしは。だけど、それじゃあなくしてしまいそうだから」
幸せで、苦しくて、哀しくて、嬉しくて。
きっと欠片しか残らない。
勝手なあたしは、それが嫌で堪らない。
せめて降り積もった夜の分だけ、あたしの中にあって。
「諦めるとか、そうするべきかもしれないけど、でも、したくない。告わない代わりに好きでいたい」
怖くて怖くて仕方がなかったこの感情。
だけど今は、ただ、なくなって欲しくない。
(…………ああ)
狂わされた。
と、思う。
もうすっかり、深みに嵌まって抜け出せない。
「ねぇ、だって、告っても多分、変わらない。どうやったって好きなまま。なら告わなくたっていいんじゃないかなぁ、とか。でも、意気地なしのあたしは、告ってしまったらもう見ないふりをしちゃいそうだから。そうしたいつか、風化しちゃいそうだから。————ねぇ、千乃。勝手にすきでいるなら、自由なんじゃないかなぁ」
「……告ったって、好きでいればいいじゃない」
「うーん、でも、そしたら、やっぱりきっちり諦めなきゃかなぁと思うわけよ」
「……一生、佐川だけ、好きでいるわけ」
一生。
あたしはぱちくりと瞬きした。
それは、なんというか。
十代の何の変哲もない小娘が使うには重い言葉だ。不確かで、絶対に、絶対と言い切れない。
「さぁ。いつか、すっかり風化した頃には他の誰かを好きになってるのかもしれないけど。今んところは想像つかないなぁ」
だってまだ、成人もしていないんだ。
そんな風にあっさり使えない。確約なんて出来ない。難しくて、——遠い、言葉。
「でも、もし一生佐川だけを好きでも」
おばあちゃんになっても片思いし続けていても。
「それはそれでいいんじゃないかなぁ」
「一生独り身」
「うーん、別に、誰かと一緒になるだけが終着じゃない気がするし、好きな相手がいるってだけで、老後はそれなりに幸福かもしんないよ?」
「あんたは、楽観的過ぎる」
「たかが恋愛に何言ってんの」
「たかが、じゃないでしょ。感情、なんだから。特に、春夜のは」
深くて情が強い、と吐息のように続くそれが微かに耳に届く。
あたしは首を傾げた。
「……————千乃?」
「……何」
「あのさ、なんかあった?」
「なんかあったのはあんたでしょ」
「や、てかさ、何であたしと佐川の会話知ってたわけ。聞いてたの」
「今言う?」
「言う。ね、千乃。……井場と、なんか、あった?」
ぴく、と千乃の眦が揺らいだ。
す、と息を詰めてから、だけど千乃はすぐそれを吐き出す。ゆっくりと、かぶりを振りながら。
「何も」
上履きをぺたぺた鳴らして、千乃は水道の蛇口を捻った。生温いだろう水が溢れる。それを手の平で掬って、千乃はぴしゃぴしゃと顔を洗った。唐突だ。でもなんとなく突っ込めなくて、あたしはただ黙った。
「……何も、ないよ。ただ、ちょっと、思うことがあっただけ」
ポケットからハンカチを取り出して拭う姿を見て、そうか、と呟く。
千乃がそういうなら、そうなんだろう。多分、何もなくたって、ふと心が何かに傾いて、何かに怯えて惑うこともある。
ぺたぺたと幾分大人しめの足音がした。音源を探せば佑香がこちらに駆けてくるところだった。
「春夜」
呼びかけに眉を上げて続きを促す。ちらりと佑香の方を窺いながら。佑香も佑香で、あたし達の雰囲気のそっと足を留めていた。
「でも、じゃあ、佐川と誰かが付き合って、その傍であんたは幸せなの」
不意に、空気が湿り気を帯びた。
水道の上にある鏡の、さらに上に位置する窓の向こうが、急に暗くなった。
ざぁ、と地を打つような音がする。
——佐川と、誰かが。
あたしはぼうっと千乃を見つめた。
ああ、それは、きっと。
佐川にとってとても幸せなことだ。
なんて。なんてそれは嬉しいことだろう。だけど。
「……傍、で」
「そう、傍で」
春夜、と控えめに呼ぶ声も耳を通り抜けていく。ただ千乃の、無機質で、なのにまるで心配するみたいな眼差しだけが、意識の中にあった。
すきなひとと一緒にいるあのひとの傍で。
心底幸せか?
——心底、嬉しい。だけど。
「……くるしい」
それは幸せとは別の、感情だ。